トップ / 出雲国造家と遷宮

06 — 社家の歴史

千三百年、
祭祀は途切れなかった。

大化の改新で全国の「国造(くにのみやつこ)」という古い官職の多くが姿を消した後も、出雲国造だけは 例外的に称号を保ち続けました。天穂日命(あめのほひのみこと)を祖と伝えるこの家系は、 14世紀に一度分裂しながらも、今日まで出雲大社の祭祀を担い続けています。

千家家・北島家、二つに分かれた社家の系譜

古い官職の生き残り

国造制が廃止されても、出雲国造だけは残った。

「国造(くにのみやつこ)」は、大和政権が各地の有力豪族に地方支配を任せた、古代の地方官の称号です。 出雲国造は、国譲りに応じた大国主神の祭祀を担うため、天照大御神の子とされる天穂日命を始祖として 遣わされた、と伝えられています。

7世紀の大化の改新以降、律令制度の整備にともなって、全国のほとんどの国造制は廃止・形骸化して いきました。ところが出雲国造だけは例外的にその称号と機能を保ち続け、出雲大社の祭祀を担う 特別な地位として、今日まで一つの家系に受け継がれてきたのです。

14世紀の相続争い

千家家と北島家――なぜ、家は二つに分かれたのか。

南北朝時代の14世紀、第53代国造・出雲孝時(いずものたかとき)の代替わりをめぐって、深刻な 相続争いが起こります。孝時は当初、子の貞孝(さだたか)に国造職を譲るつもりでしたが、母親の 意向もあって、結局は兄の清孝(きよたか)が後継者となりました。

その後、清孝が弟の孝宗(たかむね)に国造職を譲ろうとすると、貞孝はこれに強く反発し、神事を 中止させ、軍勢を集めて社殿に立てこもるという、かなり激しい抵抗を見せたと伝わります。事態を 収拾するため、地域を治める守護代が調停に入り、年間の神事や所領、役職などを両家で等分するという 裁定が下されました。

この結果、1344年(康永3年)以降、孝宗の系統は「千家(せんげ)氏」、貞孝の系統は「北島(きたじま) 氏」と名乗り、二つの国造家が並び立つことになります。以後、明治時代に至るまでのおよそ500年間、 両家は出雲大社の祭祀を分担しながら共存してきました。

現在の関係: 明治時代、千家氏・北島氏はともに華族に列しましたが、出雲大社の 宮司職は千家家が担うことになりました。北島家は現在、出雲大社の教団の一つ「出雲教」を主宰する 家系として、独自の信仰活動を続けています。

今日の国造家

第84代国造、いまも祭祀を担う。

千家家は現在、第84代国造・千家尊祐(せんげたかまさ)氏が出雲大社宮司として、日々の祭祀を 主導しています。国造の代替わりに際しては、いまも「新任国造神賀詞奏上式」をはじめとする 古式ゆかしい儀礼が執り行われ、千三百年以上にわたる祭祀の系譜が、途切れることなく続けられて いることを示しています。

2014年には、千家家の千家国麿氏と、高円宮家の典子女王とのご結婚が広く報じられ、出雲国造家の 存在が全国的にあらためて注目されるきっかけともなりました。

社殿を新たにする、という信仰

式年遷宮――社殿を修造し、御神体を遷す。

出雲大社では、およそ60年に一度を目安に「遷宮(せんぐう)」が執り行われてきました。これは、 本殿の檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の葺き替えなどの大規模な修造にあわせて、御神体を一時的に 仮の御殿へ遷し、修造完了後に本殿へお遷しする、という一連の神事です。

近年では、2008年に御神体が仮殿へ遷される「仮殿遷座祭」が行われた後、本殿の大規模な修造工事が 進められ、2013年5月、御神体が新しくなった本殿へ戻られる「本殿遷座祭」が執り行われました。 これが「平成の大遷宮」として広く知られている一連の遷宮です。次の遷宮は、これよりおよそ60年後を 目安に見込まれています。

伊勢神宮の式年遷宮との違い: 伊勢神宮の式年遷宮が20年ごとに社殿そのものを 新たに建て替える方式であるのに対し、出雲大社の遷宮は、既存の本殿を保ちながら屋根の葺き替えなど 大規模な修造を行う方式です。同じ「遷宮」という言葉でも、その内容は神社によって異なります。

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広大な境内には、本殿以外にも小さな聖地が点在する。

千三百年の祭祀を担ってきた出雲大社の境内には、本殿だけでなく、素鵞社や命主社といった小さな 社が今も大切に祀られています。稲佐の浜から日御碕まで、大社周辺に点在する聖地を巡ります。

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