平安貴族の証言
970年頃に成立したとされる『口遊(くちずさみ)』は、貴族の子弟が知っておくべき知識を集めた、 いわば平安時代の教科書です。その中に、当時の日本を代表する建造物を大きい順に並べた、有名な一節が あります。「雲太、和二、京三」――一番大きいのは出雲(大社)、二番目が大和(東大寺大仏殿)、 三番目が京(平安京大極殿)、という意味です。
東大寺大仏殿は、現存する世界最大級の木造建築として知られています。その大仏殿さえも凌ぐ建物が 出雲にあった、と平安貴族が当然のように記していたことは、当時の出雲大社本殿がいかに人々を 驚かせる存在だったかを物語っています。
2000年、地中から
2000年から2001年にかけて行われた境内の発掘調査で、考古学史に残る発見がありました。境内3箇所から、 3本のスギの大木を鉄の金輪で束ねた、直径約3メートルにもおよぶ柱の根本部分が見つかったのです。 束ねられていた杉の大木1本1本の直径は、それぞれ約1.4メートルにも達していました。
このうち、本殿の正面にあたる位置から出土した柱は「宇豆柱」と呼ばれるもので、鎌倉時代前期 (13世紀前半)に実際に建てられていた本殿を支えていた柱の一部と考えられています。単なる伝説上の 建物ではなく、実際に3本束ねの巨大な柱を用いた本殿が、少なくとも中世には存在していたことを示す、 確かな物証となりました。
図面は、実は伝わっていた
興味深いことに、出雲国造家には古くから、本殿の姿を伝える『金輪造営図(かなわのぞうえいず)』と 呼ばれる指図(さしず、設計図に相当するもの)が伝わっていました。そこには、3本の柱を金輪で束ねた 柱が9本描かれ、地上から長く延びる「引橋(ひきはし)」と呼ばれる階段状の参道が本殿へとつながる 姿が示されています。
2000年の発掘以前、この指図は後世に描かれた想像図、あるいは伝説を絵にしたものとして扱われることも 少なくありませんでした。しかし、実際に3本束ねの巨大な柱の跡が地中から出土したことで、この指図が 少なくとも部分的には、かつて実在した本殿の構造を伝える、貴重な史料である可能性が高まったのです。
それでも残る謎
宇豆柱の発見は、古代出雲大社に巨大な本殿が存在した可能性を大きく後押ししましたが、これによって 「本殿の高さが16丈(約48メートル)だった」ことが確定したわけではありません。出土した柱の位置や 規模から本殿の構造を復元する試みは現在も続けられており、高さについては48メートル説のほか、 より低い規模を想定する説も研究者の間で議論されています。
もう一つの謎
出雲大社の本殿にまつわる謎は、高さだけではありません。参拝者が拝殿から本殿に向かって拝む向きは 南向きですが、本殿内部の御神体(大国主大神)は、実は本殿の中で西を向いて鎮座しているとされます。 そのため、本殿の真正面(西側)から拝むことで、より大国主大神と正対して参拝できるとも言われ、 実際に西側にも小さな遥拝所が設けられています。
なぜ西を向いているのかについては、稲佐の浜――大国主大神ゆかりの海――の方角を向いているためと する説や、日が沈む方角(西方浄土)と関連づける説など、複数の解釈が語られていますが、これも 定説として確定しているわけではありません。
次に読むなら
巨大な神殿がそびえたという出雲。その出雲の国土そのものが、実は海の向こうから綱で引き寄せられて できたものだ、と語る神話が『出雲国風土記』の冒頭を飾っています。スケールの大きさでは本殿の謎にも 引けを取らない、国引き神話へと進みましょう。
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