まず、国づくりの神として
大国主大神は『古事記』上巻の後半、いわゆる「出雲神話」の主人公として登場します。八十神(やそがみ)と 呼ばれる大勢の兄弟神たちにいじめられ、二度も殺されかけては母神の力で蘇生する――という試練の物語から 始まり、根の堅州国(ねのかたすくに)で須佐之男命(すさのおのみこと)の試練を乗り越えて、正式に 「大国主神」の名と、国造りに必要な力を授かったと語られます。
国造りにあたって重要な相棒となるのが、小さな神・少名毘古那神(すくなびこなのかみ)です。海の彼方から 舟に乗ってやってきたこの神とともに、大国主は国土に稲作や医薬、まじないの術などをもたらし、 「豊葦原の瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれる、人が暮らしていける豊かな国を築き上げて いきました。因幡の白兎を助けた優しい神という側面も、この国造りの物語の前段に位置づけられています。
神話のクライマックス
大国主が築き上げた葦原の中つ国を見て、高天原の天照大御神は「この国は我が子が治めるべき国である」と 考え、使者を送って国を譲るよう求めます。何度かの使者のやり取りの末、最終的に武神・建御雷神 (たけみかづちのかみ)が出雲の稲佐の浜に降り立ち、大国主に国譲りを迫ったと『古事記』は伝えます。
大国主自身は国譲りを承諾しますが、その判断を子である事代主神(ことしろぬしのかみ)と建御名方神 (たけみなかたのかみ)に委ねます。事代主神は承諾して身を隠し、建御名方神は建御雷神と力比べをして 敗れ、信濃国(諏訪)まで逃れてそこに鎮まったと語られます。この建御名方神が、現在の諏訪大社の 御祭神とされる神です。
我が住所(すみか)をば、天つ神の御子の天津日継(あまつひつぎ)知らしめす、 とだる天の御巣(みす)のごとくに、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷木(ひぎ)たかしりて治め賜わば、 僕は百足らず八十坰手(やそくまで)に隠りてまつらん。 『古事記』大国主が国譲りに際して求めたとされる条件(要旨)
ここで大国主が求めたのが、「天津神の御子が住むのと同じように、地底の岩盤に届くほど太い宮柱を立て、 高天原に届くほど高い千木(ちぎ)を掲げた宮殿」でした。出雲大社の公式サイトも、この逸話を 出雲大社創建の由来として位置づけています。国譲りという服従の物語でありながら、その代償として 日本一とも語られる壮大な神殿が建てられた――という筋立てが、出雲大社という存在そのものの性格を よく物語っています。
現代の信仰へ
国を譲った大国主大神に対して、天照大御神は「目に見えない世界を司り、そこにはたらく『むすび』の 御霊力によって人々の幸福を導いてほしい」と申し渡した、と出雲大社は説明しています。国造りの過程で 農耕・漁業・殖産から医薬の道まで、人が生きていく上で必要な知恵を授けたとされる大国主にとって、 この「むすび」の力は、単なる後づけの役割ではなく、国造りの神としての性格そのものの延長線上に あるものといえます。
現在ひろく親しまれている「縁結びの神」というイメージは、男女の縁だけを指すものではありません。 出雲大社の説明によれば、これは「生きとし生けるものが共に豊かに栄えていくための、貴い結びつき」全般を 意味するとされます。人と人、人と仕事、人と土地――さまざまな「良い結びつき」を導く神として、 大国主大神は今日も多くの参拝者を集めています。
一柱にして、多くの名を持つ
古くから信仰を集めてきた神ほど、多くの名で呼ばれる傾向があります。大国主大神はその代表例です。
試練の物語で用いられる、若き日の名。「大いなる穴(国土)の主」を意味するとされる。
根の堅州国での試練の中で須佐之男命から呼ばれる名。「葦原の勇猛な男」の意とされる。
多くの妻問いの歌物語で登場する名。「数多くの矛(武威)を持つ神」を意味するとされる。
「天下を造り治めた大神」を意味する、国造りの功績を称える尊称。
須佐之男命の試練を経て正式に授かった、「大いなる国の主」の名。現在最もよく知られる呼び名。
「大国」と「大黒」の音の通じから、中世以降、仏教の大黒天と習合して民間に広く親しまれた呼び名。
次に読むなら
大国主大神は、須佐之男命(すさのおのみこと)の子孫(または子)とされています。高天原を追放され、 出雲でヤマタノオロチを退治したこの神の物語もまた、出雲神話には欠かせない一篇です。次のページで たどりましょう。
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