トップ / 荒神谷・加茂岩倉遺跡

05 — 考古学の出雲

田んぼの畦から、
358本の銅剣。

1983年、農道の建設に伴う小さな発掘調査で見つかった一片の土器のかけらが、日本古代史の常識を 塗り替えることになります。出土したのは、それまでの全国の出土総数にほぼ匹敵する数の銅剣。 荒神谷と加茂岩倉、出雲市とその隣・雲南市にまたがる二つの遺跡が明らかにした、古代出雲の 知られざる実力をたどります。

展示された銅剣・銅鐸の実物。壁面に多数の剣が並ぶ
荒神谷・加茂岩倉から出土した銅剣・銅鐸

1983年の発見

農道の調査中に見つかった、一片の土器。

出雲市斐川町にある荒神谷遺跡は、1983年、広域農道の建設に先立つ分布調査の際、水田の畦(あぜ)で 古墳時代の須恵器(すえき)の破片が見つかったことをきっかけに発見されました。遺跡名は、現場の 南側にある三宝荒神(さんぽうこうじん)の祠にちなんで名づけられています。

翌1984年から本格的な発掘調査が始まると、まず銅剣の切っ先が一つ、また一つと姿を現しました。 掘り進めるうち、それが4列に整然と並べられた、おびただしい数の銅剣であることが明らかになります。 最終的に発見された銅剣の数は358本。当時、日本国内でそれまでに出土していた銅剣の総数はおよそ 300本とされていたため、この一つの遺跡だけで、それまでの全国の出土記録をほぼ倍増させる発見と なったのです。

数字で見る衝撃: 一つの遺跡からまとまって出土した銅剣の数としては、荒神谷遺跡の 358本は今なお国内最多です。弥生時代の青銅器研究のあり方そのものを、この発見が大きく変えることに なりました。
蓮の花が一面に咲く水田の奥に建つ、荒神谷博物館の建物
蓮の花が彩る、荒神谷史跡公園

銅剣だけではなかった

銅鐸6個、銅矛16本――異なる種類が、一か所に。

発掘はさらに続きます。1985年、358本の銅剣が見つかった場所から少し離れた位置から、今度は銅鐸 (どうたく)6個と銅矛(どうほこ)16本が、まとまった状態で発見されました。銅剣・銅鐸・銅矛という 性格の異なる青銅器が、同じ遺跡内に近接して埋納されているという例は、それまでほとんど知られて いない組み合わせでした。

銅剣の多くには、「×」印の刻み込みが見られます。358本のうち344本以上にこの印が確認されており、 製作者や所有者を示す標識だったとする説、祭祀上の意味を持つ記号だったとする説など、その意味を めぐる議論は今も続いています。埋納されたこれらの青銅器は、実用の武器としてではなく、祭祀に 用いられた宝物として土中に納められたと考えられています。

わずか数キロ先で、もう一つの発見

加茂岩倉遺跡――銅鐸39個、日本最多。

荒神谷遺跡からおよそ3.3km離れた雲南市加茂町では、1996年、農道工事の際にまたも大量の青銅器が 発見されました。加茂岩倉遺跡です。ここから出土した銅鐸の数は39個。これも一つの遺跡から出土した 銅鐸の数としては、国内最多を記録する発見でした。

さらに注目されたのは、荒神谷遺跡で見つかった銅鐸と、加茂岩倉遺跡で見つかった銅鐸の一部に、 同じ鋳型(同笵・どうはん)から作られたとみられるものが確認されたことです。直線距離にしてわずか 数キロという近さに埋納された、二つの遺跡の青銅器群のあいだに直接のつながりがあったことを示す 重要な手がかりとなりました。

ガラスケースの中に整然と並べられた、多数の銅鐸の実物
展示ケースに並ぶ銅鐸の実物
なぜ埋められたのか: これほど大量の青銅器がなぜ土中に埋納されたのかについては、 定説がありません。共同体の祭祀の後に一括して埋めたとする説、勢力の交代や政治的な変動に伴って 埋納された(あるいは隠された)とする説、地域の首長たちが互いに財宝を分け合い埋納しあう儀礼 (ポトラッチ的行為)だったとする説など、複数の仮説が研究者の間で議論されています。

神話との重なり

「出雲の勢力」は、本当に存在したのか。

荒神谷・加茂岩倉の発見以前、弥生時代の出雲は、大和(畿内)や北部九州と比べて、青銅器文化の 面では目立った存在ではないと考えられていました。しかし、これほど大量の青銅祭器を保有・埋納しうる 勢力が弥生時代の出雲に存在していたという事実は、古代出雲が独自の勢力・文化圏を築いていた 可能性を、考古学的な物証として示すことになりました。

『古事記』が語る国譲り神話――大和の神に対して、出雲の神がみずからの国土を譲り渡すという 物語――を、こうした考古学的発見とあわせて、大和政権に匹敵しうる独自の勢力が古代の出雲に 存在した歴史的記憶の反映ではないか、と読み解く見方も、研究者や郷土史の中でしばしば語られて います。

神話と考古学、慎重な橋渡し: 荒神谷・加茂岩倉の発見と国譲り神話を直接結びつける 解釈は魅力的ですが、あくまで一つの見立てです。神話の成立時期・性格と、弥生時代の考古学的事実との 間には数百年単位の隔たりがあり、両者を安易に一対一で対応させることには、慎重さが必要だと 考えられています。

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