1983年の発見
出雲市斐川町にある荒神谷遺跡は、1983年、広域農道の建設に先立つ分布調査の際、水田の畦(あぜ)で 古墳時代の須恵器(すえき)の破片が見つかったことをきっかけに発見されました。遺跡名は、現場の 南側にある三宝荒神(さんぽうこうじん)の祠にちなんで名づけられています。
翌1984年から本格的な発掘調査が始まると、まず銅剣の切っ先が一つ、また一つと姿を現しました。 掘り進めるうち、それが4列に整然と並べられた、おびただしい数の銅剣であることが明らかになります。 最終的に発見された銅剣の数は358本。当時、日本国内でそれまでに出土していた銅剣の総数はおよそ 300本とされていたため、この一つの遺跡だけで、それまでの全国の出土記録をほぼ倍増させる発見と なったのです。
銅剣だけではなかった
発掘はさらに続きます。1985年、358本の銅剣が見つかった場所から少し離れた位置から、今度は銅鐸 (どうたく)6個と銅矛(どうほこ)16本が、まとまった状態で発見されました。銅剣・銅鐸・銅矛という 性格の異なる青銅器が、同じ遺跡内に近接して埋納されているという例は、それまでほとんど知られて いない組み合わせでした。
銅剣の多くには、「×」印の刻み込みが見られます。358本のうち344本以上にこの印が確認されており、 製作者や所有者を示す標識だったとする説、祭祀上の意味を持つ記号だったとする説など、その意味を めぐる議論は今も続いています。埋納されたこれらの青銅器は、実用の武器としてではなく、祭祀に 用いられた宝物として土中に納められたと考えられています。
わずか数キロ先で、もう一つの発見
荒神谷遺跡からおよそ3.3km離れた雲南市加茂町では、1996年、農道工事の際にまたも大量の青銅器が 発見されました。加茂岩倉遺跡です。ここから出土した銅鐸の数は39個。これも一つの遺跡から出土した 銅鐸の数としては、国内最多を記録する発見でした。
さらに注目されたのは、荒神谷遺跡で見つかった銅鐸と、加茂岩倉遺跡で見つかった銅鐸の一部に、 同じ鋳型(同笵・どうはん)から作られたとみられるものが確認されたことです。直線距離にしてわずか 数キロという近さに埋納された、二つの遺跡の青銅器群のあいだに直接のつながりがあったことを示す 重要な手がかりとなりました。
神話との重なり
荒神谷・加茂岩倉の発見以前、弥生時代の出雲は、大和(畿内)や北部九州と比べて、青銅器文化の 面では目立った存在ではないと考えられていました。しかし、これほど大量の青銅祭器を保有・埋納しうる 勢力が弥生時代の出雲に存在していたという事実は、古代出雲が独自の勢力・文化圏を築いていた 可能性を、考古学的な物証として示すことになりました。
『古事記』が語る国譲り神話――大和の神に対して、出雲の神がみずからの国土を譲り渡すという 物語――を、こうした考古学的発見とあわせて、大和政権に匹敵しうる独自の勢力が古代の出雲に 存在した歴史的記憶の反映ではないか、と読み解く見方も、研究者や郷土史の中でしばしば語られて います。
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弥生時代から続く古代出雲の祭祀の記憶は、現在の出雲大社の祭祀を担う出雲国造家にもつながって います。千三百年におよぶ社家の歴史と、その系譜が二つに分かれた経緯をたどります。
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